タフらいと誕生物語【第5章】(3)
葛藤と決断(母)
そこまで考えても、私は、どうしても決められなかった。しかし、そんな決断力のない私に、思いもよらなかった大きな衝撃が舞い込んできたのである。
それは、一本の電話による知らせであった。一瞬にして、私を不幸のどん底に落とす人生最大の不幸の知らせであった。
母が治療方法のない難病で、治療方法がなく待っているのは『死』でしかないという知らせである。筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病気であった。
母は、幼い頃に両親を亡くし、親戚に引き取られながら2人の妹を養育し、父と結婚してからは、厳しく、優しく、愛情たっぷりに私たち兄弟を育ててくれた。明るい性格で誰からも好かれていた。昔の日本人の凛とした気高さと、現代風の明るさを持った人だった。
私はその事実に狼狽し、悩み、今までの親不孝を後悔した。後悔どころか懺悔であった。フォークダンスが好きで、元気に飛び回っていた母は、日本の平均寿命からすると、あと20年は生きていると思っていた。
まだ、先がある、いずれ親孝行しよう、今は、自分の子供を育てるのに手一杯だし、、、そう考えて、親孝行などほとんどしなかった。本当に。その知らせを受けた時に、自分が限りなく情けなかった。
そして、この事実は、私は、重大な決心をさせたのである。
『今を生きよう。今を大事にしよう。明日があり続けると思ってはいけない。そして母は、事なかれ主義で生きる道を選択するために、私を一生懸命に育ててくれたのだろうか?厳格で優しい母は、最後は、何をしても、あの世で再会したら、よくやったと、褒めてくれるだろう。でも、自分が納得できない人生を送ることは、母はきっと望まないだろう。』
ついに、私は、『今を必死に生きる』事を決断した。
病気の母に余計な心配をかけたくないため、この決意は最後まで母には伝えなかった。そして、母は、病気が発覚してからわずか1年ほどで静かに息を引き取った。
私は、病気によって口も、手足もほとんど動かなくなってしまった母の、結果的には最後の別れになった際の『頑張りなさいよ』という、優しくも、力のこもった母の眼差しは、今でもはっきりと覚えている。それは、私にとって、今でも第二の人生の、“道しるべ“になっている。